2016/06/30

演説

 意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだという点である… 何ごとであれ、そこにはつねにそれ以上のことがある。どんな出来事でも、ほかにも出来事がある。(スーザン・ソンタグ)

 昨夜、外出支援の帰りに蒲田駅西口から電車に乗ろうとしたら、生演奏が聴こえてきた。どこのソウル・バンド? って思わず足を止めた。えっ? 選挙?
 いや、帰るよ、もう。と思ったが、どうしても足が進まず、止められてしまい、聴いていた。ウソばっかり怒鳴ってる国会議員の演説なんか聴いてるよりよっぽどいいという気がした。雨がぽつぽつ。ラッパーの後ろのテントにバンドがいた。いい音が鳴っていた。音楽が終わると、演説が始まった。

2016/06/29

「こども」と一緒にいる時間

 もうすぐ6月が終わる。ここでもくり返し書いていることだけれど、4月から数年ぶりに再開した「モーニング・ページ」がいろんな方面に効いているような気がしてる。今月は100%毎日書いた。何がどうなの? ということはやってみた人にしかわからないようなところがあると思う。社会性からは離れて、自分の心のなかの「こども」と一緒にいる時間と言ってもいい。他人とか世間とかに気をつかう時間が減り、自由な感覚に身を任せる時間が増えてくる。ぼくは批評家になりたくないと常々思っているんだけど、もっとも手強いと思われる、自分のなかの批評家に言い負かされないように。そんなことして何になるの? と彼はいつものように、ぼくが何かはじめると必ず言ってくる。知るかいそんなこと!

2016/06/28

意味不明

 自分は知っている、と思う者は知らない。自分は知らないと思っている者は知っている。ここで言う〈知る〉は知らぬであり、〈知らぬ〉は知ることだからである。(『道徳経』)

 最近、自分でもわけのわからない原稿を書いていたが、いよいよ本当にわけがわからなくなった。『アフリカ』というあのアフリカとは関係なさそうなややこしい名前の(でも10年もやっている)雑誌に載せるつもりらしい。これまで自分が書いた原稿のなかで最も意味不明かもしれない。やりたい放題。
 何をするにしても、わかりやすい「意味づけ」には、あまり近づきたくないなぁ。それを言うと、昔のことは、妙に「わかった」りするよ。いま起こってることは、わかってないことが多いようですね。なんかあたりまえのようなことだ。

2016/06/27

我が家のニュースソース

 夕方、雨が上がったので、親子三人で散歩がてら駅前のスーパーまで出かける。少し体調を崩したのと、雨がつづいていたので、光海は家にこもりっぱなしだった。少し出るだけで元気が出るというか軽やかになるというか。人も生き物だ。身体って面白いね。こんな小さなことが我が家ではニュース(?)になる。いい時間だった。

2016/06/26

姿勢とか態度とか

 「お休み」の日の「支援」は、ぼくには仕事だし、場合(人)によっては本人も「お勤め」のように感じて時間をこなしている(たとえば、あの店へこうこうやって行きこういう食事をしなければならない! というように)。が、それでもお出かけをすると「休日」モードはよほど徹底して排しない限り漂ってくるわけで… 「お休み」な姿勢とか態度とか、そういうものをポンと差し出すのもぼくの仕事かな。

2016/06/25

「幸福」というキーワード

 「幸福」ということばは、じつは自分が(ひそかに… でもないか)ずっと書いてきた個人的な小説群の底に一貫して流れているキーワードのようなものだった。「幸せな玄関」というのがあるしね。「いつも通りにたたずんで」にも「至福」がどういうものかという記述がある(小川国夫さんとその話をしたっけ)。たしか『アフリカ』でも、「結婚」と「幸福」を一直線に結びつけるような考え方は現代のものだなんてことを書いたことがあったし、忘れているだけでほかにもあるはず。

 映画『幸福は日々の中に。』──ぼくは映画の宣伝チームの回し者ではないですが、個人的に応援。7月2日のイメージフォーラムを皮切りに公開。楽しみです。

2016/06/24

熟慮断行

 人の目の不確かさ、不安定さが眺める対象を歪めたりブレさせたりする。つまり世界は遠近法なんかでは到底捉えきれない、と。ぼくも全く同感です。常々、見間違うことで世界が見えると思っています。(O JUN)

 今週のアトリエ、梅雨のじめじめが入り込んできているのか、どこかお疲れモード。そういうときもある。「考えない」で進めることが必要なときもあるだろうけれど、ぼくはいまは「ところん考えろ」という姿勢でいる。絵にもことばにも、生きていくのにも、マニュアルなどない(もちろん先生であるぼくにもない!)。では「考える」にはどうすればよいか? 「表現」を学ぶ若い人たちと共に模索する時間はぼくにも刺激たっぷりなんだ。「考える」には「頭」だけじゃダメだよね。「心」がいる。「身体」がいる。そして「断行」するときに必要なものは… と思いめぐらせる。(写真はアトリエのスタッフが地元・新潟から送ってきたニンニクの花、この下には玉葱くらいの大きさのニンニクが… 美味しくいただきました。)

2016/06/23

小気味よいテキスト

 決して強引に自己決定を導くものではなく、正当なパターナリズム(他人が当人の利益のための意思決定すること)への手がかりとして、その人がどう生きようとしているのか、本人の意思に本気で介入して共感することが私たちの仕事なのかもしれない。(福森伸)

 今日の外出支援は、4年前、この仕事を始めたころからの付き合いである青年の「支援」で、1ヵ月ぶりくらいに会った。ご家族は今週も調子が良くなさそうで… と心配していたが、会ってみたらふわっと気分よさそう。いつもの店で食事をして、いつもは行かないほうにも足をのばしてお茶をして、のんびり時間を過ごした。仕事らしいことは何もしていない、ように見えるかもしれない。それでよし!
 上にひいたのは『創ってきたこと、創っていくこと』というしょうぶ学園の40周年記念誌(2013年)から。小気味よいテキストを得て、どこか少しマンネリズムに陥っていたぼくの「支援」にも活きが戻ってきた。

2016/06/22

雨上がり

 百年たてばその意味がわかる! 百年たったら、帰っておいで!(寺山修司)

 今月は久しぶりに小説の原稿をやっている。小説というのは便宜上そう言っただけで、ジャンルが何だということを意識するようなものではないのだけれど、小説っていうものには本来そういうところがあるものだという気もしてそう呼んでいる。いま(この社会で)一般的に言われているそれとは多少のズレがありそうだ。でもそんなことは関係ねーや。モーニング・ページを毎日書くことで、手錠が外れて自由になった感じがしている。モーニング・ページという名称も、考案者に感謝の気持ちを抱いてそう呼んでいるだけど、実体はけっこうぼくのアレンジが入ってる。自分の「道具」は自分でつくればよいのだ。セラピーとか創作の糧をといったつもりもない。スポーツ選手が毎日走るのと同じだ。たいしたことじゃない。

2016/06/21

空っぽの箱

 朝、モーニング・ページをやっていたら雨の音が徐々に降り出した。夏のような日が数日つづいて忘れかけていたが、梅雨はまだ終わってないんでしたね。
 雨のなかの「外出支援」はちょっと億劫だけれど、ぼちぼちやりましょう。

 『アフリカ』は空っぽの箱だ。ということばがモーニング・ページに出てきた。それ自体が一個の生命体のようなところのある、空っぽの箱だ、と。その時々で、いまいる人たちでつくればよい。『アフリカ』はチームじゃない。組織的なふるまいは要らない。人は出たり入ったりする。一種のプロジェクトではありそうだ。それって、これからいろんな仕事にかかわっていくうえでヒントになりそうじゃない? プロジェクト単位の動きにすぎない(すぎないとは何だ)から、ずっとつづくようなことではなさそうだが、『アフリカ』の場合、具体的な場所があるわけではなくて、各々の心のなかにある場なので、誰かの心のなかにある限り、つづくのだ。

2016/06/20

壁かけ時計

 この「道草の家」に引っ越してきてから、4年3ヵ月、ずっと、ほしいね〜、と言っていた壁かけ時計を、ようやく購入した。先月の帰省の際、立ち寄った鹿児島の雑貨屋で妻が見つけて、「メモ」を持ち帰っていたもの。シンプルで見やすく、秒針の音がしない、というのが気に入って。3000円ちょっとの時計が買えなかったのは、貧乏というより、何だろう。

 いま、『アフリカ』の組版の基本設定などを再構築している。『アフリカ』はぼくが自分で組んだ──「デザイン」した(表紙以外は)──最初の本(冊子)で、この作業は10年後のぼくから10年前のぼくへのプレゼント。

2016/06/19

肩たたき券

 仕事から帰宅して晩ご飯を食べて酒を飲んでたら、光海が、ぱぱぁ! と走ってきて「肩たたき券」をくれた。ありがと。どこでもらったの? ママの書き記したメッセージつき。なんだか、券、使えないね。

2016/06/18

「おまえさんにはむりだね」

 真夏のような暑さ。今日は家にいて、夕方からは(妻が外出するため)光海とふたりで過ごす。たまにはいい。寝る前には絵本を何冊か読んであげて、お月ちゃまにも会いに行った。けれど彼はママがいないと言って泣きながら眠った。

 その息子から、あるとき「おまえさんにはむりだね」と言われる。なんのこと? と思ったら、このあいだママにおねだりして買ってもらったトーマスの手のひらサイズの絵本を読んでもらってことばをおぼえてしまったんだな。まだ文字は読めないはずなのに、本をひろげて自分で読んでいる。素晴らしい吸収力!

2016/06/17

原点

 表現というものの無力さの認識、それがあらゆる表現者の出発点であると私は考える。(古井由吉)

 今夜のアトリエではついに「モーニング・ページ」と「アーティスト・デート」にかんする授業(?)をやってしまった。アトリエではじめてその「ツール」をご紹介してから、丸2年くらいでしたっけ? それは芸術家を育成するための道具ではなくて、たとえば、自分自身を大切にするためのもの。心の奥に潜んでいる自分の気持ちに少しだけでも応えてあげよう。ぼくには、どうしても「つくらなければ」という気持ちはないが、生まれてくるものを「生かしたい」「救ってあげたい」という気持ちは大きい。

2016/06/16

素敵じゃないか

 「Pet Sounds」の50周年記念盤を聴いていたら、最近、Brian WilsonのライブDVDにハマっている光海が大喜びで「ギターひく?」(ウクレレです)「キーボートひく?」(木琴です)と言って歌ったり踊ったりする。今朝はこんなことをしていた。うん、「Pet Sounds」もいいけど、「Don't Worry Baby」とか「Surfer Girl」とか「Wild Honey」とか「All Summer Long」とかがお気に入りだもんねぼくたち!

2016/06/15

スイカ初め

 今年のぼくの「スイカ初め」は今朝だった。妻子は先週末にすませてしまったという。また夏がやって来ますね。

2016/06/14

『アフリカ』の流儀(のようなもの)

 『アフリカ』が(重い腰をあげて)少しずつ動き出している。まさか1年も空くとは思っていなかった。1年も空いたのは創刊以来はじめて(もっとも当時はそれ1冊で終わるかもしれないと思っていたので「創刊」という感じではなかったが…)。空いたのにはいろいろと事情があり… いや言い訳があり…(なんてくり返し言ってます)とくに大きなことがあったわけではなくて逆になかったというか… 継続するには継続してない新しい何かが要るような気がする。で、最近はその「何か」がきているのでやれるわけ。8月で10周年になるので、「10年間」をテーマにした新企画も準備中。とはいえ特集を組まないのが『アフリカ』の流儀(のようなもの)で、新企画は紙面でやるのではなくて… ということも考えてる。いろいろ考えていると面白い。考えて、始めて、つくって、完成する直前で終える、ということができたら本当によいのだが…

2016/06/13

何もしてない

 日曜の「支援」では久しぶりに上野へ。なぜかというと西洋美術館のカラヴァッジョ展の最終日を覗きたかったから。支援者の公私混同? まぁね。でも彼も「いいね。どうぞ」って感じなので甘えて出かける。上野だったら散歩もできるし、ちょうどいい。カラヴァッジョは人が多くて混雑していたが見れないほどではなく、ざっと眺めて(展示場を)通り過ぎて出た。あとは散歩、休憩、散歩、昼食、散歩、うとうと、散歩、お茶、という感じで過ごす。たいして何もしていないが、何もしてないというのはこちらの感覚で(「重い障害」があるといわれる)本人がどう思っているかというのは違うところにありそうだ。「支援」という仕事にたいして「良い」とか「良くない」などと評価するようなことをぼくは好かない。今日はいい日だった。

2016/06/12

消えた「ダンボ」

 昨日はからすの画伯の散髪につきあい、彼が行きつけにしているというラーメン屋を紹介してもらったが、「人手不足のためしばらく休業」と張り紙があったので(残念!)別の店でラーメンを食べた。画伯は近隣の図書館でアニメのビデオを見るのが休日の楽しみのひとつなのだけど、ビデオ視聴機がひとつしかない図書館を選んで行くので競争率に負けることがある。昨日も散髪のあとはそんな日。幼い女の子が彼の「バーバパパ」終了を待って「ダンボ」を見はじめたら、彼も「ダンボ」が見たくなったのだが、女の子が見終わるのを待っていたら夜になってしまう(図書館は閉まります)。でもよく考えたら彼は「ダンボ」のビデオを家に何本も所持していたではないか?(しかも家では図書館のそれより大きなテレビで見られる!)それを問うと「ないよ」とのこと。まさか! 消えた「ダンボ」はどこへ?(次回へつづきませんヨ!)

2016/06/11

自宅のギャラリー

 からすの画伯に会いに行く。これまで絵は自宅では「展示」されてない状態だったのだけど、最近、廊下(玄関からリビングにかけての通路)で「個展」を始めたみたい。自宅のギャラリー、ですね。

2016/06/10

触発されて…

 アトリエにて。今夜の授業は久しぶりに下窪先生の独演会? ほとんどの時間をぼくが話して終わった。「純粋芸術」とか「生の真実」とか「詩と美術」とか、20歳前後(多くはまだ10代)の学生たちと話すには骨の折れる内容だった。ような気がする。
 学生たちは受験に備えるだけでなく、アトリエという「場」を共につくることを通して、ながく人生に通じる大きなことを学んでいる、学べる貴重な機会になっていると感じる。今年はとくに面白い。ぼくも触発されて… ということがなければ噓になる。

2016/06/09

「デザイン」の意味

 今日は大田区内で打ち合せ2件。ぼちぼち終わって蒲田駅まで移動して、駅前の立ち食い蕎麦屋で天麩羅蕎麦を食べる。天麩羅? と言いたくなるような食べ物が載っているのだけれど、これが食べたくなるときがある。290円。胃にも家計にやさしい味。

 「デザイン」とは何だろう。どう説明すればいいんだろう。という場面があり、自分なりの整理をしていた。辞書をひくと、「ある対象について意匠すること」とある。ラテン語の「デッサン」(絵にかんして現在でも使うことば)と同じ、ともあって面白い。少なくとも、悪いものを良く見せること、ではないよね?

2016/06/08

創造

 希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの。(魯迅)

 ずいぶんながくお休みしてしまった。何の話かと言うと、創作の原稿を書くこと。毎日のモーニング・ページを通して、あ、そうかぁ? と思うことがたくさん、ぽろぽろ(自分のなかから)こぼれ落ちてくる。なるだけ拾ってあげて、実際に動いてみる。読者にとっては、とっつきにくい、すらすらとは読みづらい、ゴツゴツした、ムチャクチャでもいいから自由なものを久しぶりに書いてみたい。

2016/06/07

濃すぎる味

 病み上がりで、大丈夫かな? と思いましたが、外出支援ふたつ、計9時間をこなしてラーメン一杯食べられたのでもう大丈夫。しかし東京のラーメンは全体的に味が濃すぎる。品がないというか深みがないというか。いや、食文化の違いですね。大丈夫かな? と思ったのはつまり「胃」の心配でした。

※写真と本文は関係がありません。

2016/06/06

爽やか

 「普通の風邪なら(寝込んでから)三日かかる」と妻が言っていたのは本当で、三日目(今日)の昼くらいから急にからだが軽くなった。そうるすると寝る前にシュワシュワしたものが飲みたくなる。蜂蜜レモンをお湯で飲んでいたところを氷と炭酸にした。爽やか。

2016/06/05

お見舞い

 妻子からのお見舞いの品。似てる? 熱は下がって、ちょっとあがって、また落ち着いて。と、もう少し。

2016/06/04

発熱

 昨日のアトリエ(でのぼくの授業)には素晴らしいゲスト(本人曰く「見学者」)が来てくれた。とってもよい時間になった。が、ぼく自身が体調が最悪。じつは二週間前の授業のときにも体調が悪くて、危ないな、と思っていたが、終わって飲んでいたら治ったようだった。その後もずっと体調がよくない気はしていたが、騙し騙しやっていた。それが昨日の夜にガタッと崩れたわけだ。終わって喋っていても、ふらふら。頭もからだも。這うように帰宅して熱をはかったら39℃だった。これではきついわけだ。と、今週末は外出支援の仕事をやむなくお休みさせてもらって、ひきこもってます。

 二階の自室で寝ていたら、光海が、ぱぱぁ、と言いながら上がってきて、かきのみ! だって。くれるの? ありがとう。

2016/06/03

こども時代と公園

 久しぶりに家族三人で森林公園まで出かけてきた。妻がインフルエンザで寝込んで以来、帰省したり、何やらで忙しくて三人では行けてなかった。歩いてすぐの場所に、こんな公園があるというのは、素晴らしいことだなぁと思ってる(そういえば、ぼくがこどものころにも、近所に大きな公園があったんだ──ぼくの家族が引っ越して行った後、公園はなくなり、県庁の庁舎が建てられたけれど)。もちろん馬たちにも会いに行った。みんな元気そう。今日もいい風が吹いていた。

2016/06/02

花たちと

 今日はとてもいい風が吹いていた。「外出支援」で一緒の、知的障害のある彼も気持ち良さそうで、歩きながらたびたび立ち止まり、風を感じているような、空と通じているような不思議な、いい表情をしていた。
 道草の家の周囲では、花たちがきれいな季節。ぼくの部屋の目の前のタイサンボクも白い大きな花を木の枝のあちこちに咲かせていて賑やかだし、少し外へ出ると路上は紫陽花だらけだ。家の庭でも、紫陽花は咲いている。額紫陽花(ガクアジサイ)という。引っ越してきた年には咲かなかったのが、いつからか咲きはじめた。昨日、今日と、カメラ片手に家のまわりをうろうろして、そんな花たちの写真をたくさん撮った。幸せな時間。

2016/06/01

アーティスト・デート

 あなたの中のアーティストは子どもである。親と過ごす“時間”のほうが、費やされる“お金”よりも重要なのだ。大切なのは時間をかけることなのである。(ジュリアン・キャメロン)

 『アーティストの方法』(日本版のタイトルは『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』)での「基本ツール」には「モーニング・ページ」のほかにもうひとつ、「アーティスト・デート」というのがある。「気晴らしのように思えるかもしれない」が、それはね、ぼくは20歳前後のころからずっと意識してやっている。どんなに忙しくても、短い時間でいいから(仕事帰りとか)「自分のなかの子ども(アーティスト)」と「デート」するようにしてる。で、今日は妻子も出かけたし外出支援も休みにしていたのでそういう日にしようと思ったが、散髪をしなきゃとか買い物(生活必需品)をしなきゃと忙しくして一日が過ぎた。ま、少しずつでいいのだ、と思って、夜は久しぶりに家族で借りてきた映画のDVDを観て過ごした。