2017/04/04

つづく

 3月は丸々、このブログの更新をお休みした。一度は止めて、子が生まれるのを機に再開した「道草のススメ」だけれど、もともとは府中にいたころ毎日の生存確認のような意味合いで始めたもので、再開から先々月までの分は「後日談」のようなものだと思っていただけたら、大きく外れてはいないような気がする。
 ちょっと考えて、ウェブで書く場所を少し整理することにしました。今日からは「道草の家、の2階」(note)で書いてゆきます(アカウント自体は「note」自体がスタートした2014年から存在はしていた、少し書いたものも残っていた)。なので、つづきはそちらで(場所を変える理由の一部は「つづき」に書きました)。
 Bloggerとは10年の付き合いでした。ありがとう。そして、ごきげんよう!

2017/02/28

「ゴゥワ」の実と共に

 皆ここで何を祈り続けているのだろう。(中村広子『ゴゥワの実る庭』)

 今年もあっという間に2ヵ月が過ぎてしまった。3月は息子の誕生日があり、それが過ぎると、もう本格的な春だ。4月や5月の予定も、少しずつ埋まってきている。ぼくは日々の仕事や生活の傍らで『アフリカ』と『ゴゥワの実る庭』の準備を少しずつやっているが、なかなかスムーズには進められず、もどかしい思いをしている。『ゴゥワの実る庭』は、2010年から2012年にかけて『アフリカ』で連載していた旅の記録だが、ぼくはその「書かれた旅」の感触が忘れられなくて、ずっと手もとに置いておきたい「本」なのだけれど、1冊にまとめられていないので、まとめておきたいというわけ。

2017/02/27

対照的な姿勢〜横浜美術館と篠山紀信

 今月は横浜美術館が「写真美術館」と化していた。特別展の篠山紀信が表面で、裏面は横浜美術館の写真コレクション展、裏面の充実ぶりは、「主に有名人を撮った写真をばかでかく見せる」という1アイデアに固執したような表面を軽く凌駕していた。1アイデアだけで押し切る、というアイデアで(おそらく)つくられたものが、すごく良かったという記憶はぼくにはあまりない。ただ、「篠山紀信」というブランドを横に、手持ちの駒で何が出来るか、というので横浜美術館のキュレーターは燃えたかもしれない。写真による「昭和史」であれ、「都市」であれ、「前衛」であれ、それをどう見せるかという工夫には出し惜しみがないように見える、そのアイデアを「篠山紀信」で(も)やることはじゅうぶんに可能だと思ったが、巡回展である「篠山紀信」はそんなことをせず「ただ見てくれたらいい」という姿勢を崩そうとしない。それは彼の、広告写真家としての願望なのかもしれないが…

2017/02/26

焚火

 今日の外出支援、焼き肉をやるというので誘われて、三浦海岸まで出かける。行った先は、質素な別荘のような場所。竹を刈って焚火をしながら、牛肉や海老を焼いて皆で食べる。普通に美味しい。という、その「普通」って何だろうか。
 海からは少し離れた場所だが、微かに海の気配を感じる。そこでは皆、饒舌になることもなく、ゆったり過ごせていたような気がする。そんな場所と時間が貴重に感じた。

2017/02/25

ご馳走

 不思議と、これが「ご飯」なんだな、とわかる。「パパたべて」と言われる。

2017/02/24

分岐点から

 数年前に某所で毎日のように顔を合わせていた人と、昨日は久しぶりに会って飲んでいた。いま、現在進行形で動いている仕事や物事と関係のないような話が遠慮なく出来る友人の存在も、ありがたい。数年前に、と言ったが、数えてみると、2011年だから、もう5〜6年も前になるんだ。2011年は、個人的にも、大きな分岐点になった年だった。
 野毛の「もつしげ」で飲み食いをして、伊勢佐木町のバーで飲んでいたが、最後に飲んだ二杯の強いお酒(そのお酒の名前は失念)が効いて、今朝は、起きたときにはそれほどでもなかったのに、だんだん気持ち悪くなってくるという妙な二日酔いになった。

2017/02/23

「春」を揚げる

 今朝はまた春の嵐だったが、妻が少しだけ庭へ出て、「春」を少し摘んできてくれた。それを油で揚げて、頂き物の妻有(つまり)蕎麦を茹でて一緒に食べた。妻曰く「うちが一番(経済的に)苦しい季節に出てきてくれる」──そうですネ。

2017/02/22

その試み

 写真は今朝の空。5年前の今日は、ふたりで区役所へゆき届けをして、そのあとちょっとしたご馳走(ランチ)を食べに出かけた。妻は、指輪とかそういう類いのものは要らない(買わないでいい)という人で、道草を摘んで輪っかをつくりリングのようにして写真を撮ったりした。パーティーは3ヵ月後だったし、引っ越しを控えていたので、そのときはたいしたことは何もしなかった。
 結婚って、絶対に必要なのは紙切れ1枚で、あとは何とでもなるもんだ。その紙切れも、必要ないと思えば出さなくていい。──ぼくらには出さない理由が見つからなかったので出したというわけ。
 ぼくはというと、まだアトリエでの授業も始まっていなくて(その少し後に始まった)、外出支援の仕事を始める半年くらい前のこと。まだ「ひきこもり」(精神的な?)の延長戦をやっているような時期で、正直楽ではなかったが、何だかボンヤリしてもいて… なんて昔の話のように書いているけれど、じつはその試みはいまも続いてる。

2017/02/21

5周年

 明日はぼくたち夫婦の結婚記念日。結婚してから、もう5年もたつの? と、信じられない速さで時が過ぎてゆく感触があります。しかし結婚当初と比べたら、ぼくたちの生活も、すごく変わってます。じつは当初はろくに仕事もなく、本当に何もない状況で、生活してゆけるのか? と不安になる暮らしぶりでしたが(不安になるという意味では大きくは変わってはいないかも…?)、おかげさまで何とか暮らしてます。ちいさく、ちいさく(ゆっくり、のろのろ)やってゆこうという思いは、間違っていなかったかもしれない、という気もしてます。ぼくの頭にあるのは、いつでも「継続してゆくには…」で、「大きくするためには…」ではないということ。それにしても、この5年はあっという間だった。その前の5年間は移動に次ぐ移動で、1〜2年がものすごく長く感じていたのでした。
 明日はぼくが外出支援で夕食時に家にいられないので、今夜、焼き肉と、特別なゆず酒で、お祝いを。乾杯! これからもよろしく。

2017/02/20

真夜中の「珍盤奇盤」特集

 これは先週の写真で、今日は強風吹きすさぶ春の嵐の日。終日、家にいて、息子と遊んでいた。昨夜は「夜のサンデー・ソングブック」を聴いて遅くまで起きていたので、眠い。
 「夜の」は「珍盤奇盤」の「お色気路線」ばっかり集めた特集。いつもの午後の「サンソン」ではかけられないものを、という企画で(エッチなレコードばっかりだからネ)。しかも「珍盤奇盤」なので、ただ「エッチ」なだけじゃない。突き抜けてないとね。達郎さんによると「シャレがきいてないと」。しかし、ただ「性愛」にかんする歌で言うと、普段からけっこうキワドイのはかかっているんですよ。英語だから無事ですんでる?

2017/02/19

キープ・オン・トリッピン

 それなりに経験を積んでくると、妙に賢くなってしまってというか、あの、何も知らずに突然ぶつかったような感動や、高揚感が懐かしくなるときがある。しかし出会ったときの感触は、もう二度と得られない。完全に忘れてしまわない限りそれはないというか、忘れられたとしても、それはまた新しい別のものであって、かつてあったそれではないのだ。だから二度と得られないものだけれど、せめて、あまり頭を働かせずに、浴びるような体験も意識して求めようと思う。ぼくが頭を働かせてしまう一因は、自分もつくり手であるからだとハッキリしていて、自分ならどうする…? と常に頭は働いている。それは悪いことじゃないのだけれど…

2017/02/18

「翻訳」のワークショップ

 Painting can be many accumulated quick moments, or happen over a long time. It’s not about failure so much as it’s about letting the painting tell you what it needs. Just watching it, watching everything that’s happening in it. A painting takes place over time, so it has many influences coming into it. (Elizabeth Peyton)

 吉祥寺美術学院のアトリエでこの季節にやるのは初の、英語の先生と私(いちおう国語とか道草とかの先生)でやるのも初のワークショップが無事に終了。題して、「翻訳」のワークショップ。例によってぼくの思いつき企画だけど、ぼくが考える以上に伝わっていた「ハチャメチャ訳」の醍醐味。面白かった!

2017/02/17

もう春が

 昨日の昼前に、光海とふたりで森林公園へ出かけたら、もう春が来ていた。この「春」の前で、1歳半のこどもとふたりでセルフ撮影をしようとしているお母さんがいたので、声をかけて、撮ってあげたら、撮るものあります? と言われて、ぼくたちも撮ってもらった。いい気分だった。

2017/02/16

3/16開催「地域型TSネットワークを考える」のチラシ

 この「TS」と書かれたチラシをデザインしました。何のチラシかと言うと、3/16(木)開催のイベント、おおたTSネット1周年拡大定期大会「地域型TS(トラブルシューター)ネットワークを考える」。
 「TS」とは「トラブルシューター」の略で、トラブルに巻き込まれた(障害のある)方を支援する人のこと。以下、Hさんの書かれた案内文を引用すると──障害に関する理解を広め、安心して暮らし続けられるよう、トラブルをネットワークで解決していく仕組みを地域でつくろうと『おおたTSネット』が設立されてちょうど1年… この度、さらなるネットワークの充実を図るため、TSの生みの親である野沢和弘さんを講師にお招きし、講演会&シンポジウムを開催します! 皆さまのご参加お待ちしています。
 詳細は、Facebookのイベントページをご覧ください。Facebookやってない人はどうするんだろう?(やってない人でも見られる?)

2017/02/15

『潜行一千里』の話のつづき

 バンコクを発つ移動車で撮影された前方より流れてくる景色と同時に、後方へと遠ざかる景色は、高速道路からやがて長閑なあぜ道、鳥が鳴き、水牛が歩く、ノーンカーイへと移り変わっていく。撮影クルーが幾度も見ていたであろうタイの夕陽が五面のスクリーンに五つの時間で沈む。(中尾拓哉〜『潜行一千里』パンフレットより)

 昨日、日仏会館で観た『潜行一千里』の感動が気持ちよく尾をひいている。会場には山口情報芸術センターがつくった無料のパンフレットも置いてあり、持ち帰ってきて読んでいる。これを読んで、あの映像体験が、ますます深まってきた。
 おもしろかったぁ! ではどうしても終わらせられない、観たこちらを持ち上げ、何らかの動きを呼ぶような力があるんだな。

2017/02/14

空族との旅

 夕方、恵比寿へ道草して空族の映像インスタレーション『潜行一千里』を観てきた。空族のドキュメンタリーは見るというより映像の感覚の中へ入ってゆく。久しぶりの、その感覚が、さあっと降ってきて、しみじみ嬉しくなる。
 見終えて外へ出ると、目や耳が洗われたようになり、よく見え、よく聞こえる。富田さん相澤さんとも映像の中で久しぶりに再会できた。
 『潜行一千里』、4+1の画面と多チャンネルの音を組み合わせた凝った作品で、ドローンによる上空からの映像もあるし、いつの間にか空族が贅沢な感じになっていた。それでもやっぱり、『furusato2009』で出会った、あの感じは健在だった。至福の43分、しかも無料です。日仏会館で26日まで。そして、あの『サウダーヂ』から約5年ぶりの富田監督の新作『バンコクナイツ』も25日から公開になる。それも(もちろん)楽しみ。

2017/02/13

救いのラーメン

 自分のなかでいろいろあって、鬱々としている。こういうときには、どうすればよかったっけ? と、いつもいざそうなるとわからなくなる。
 昼前、鬱々としたまま、光海と買い物に出かける。駅前まで来たついでに、商店街をウロウロして、外れまで行ったら、急に、酔亭(ヨイテイ)の味噌ラーメンが食べたくなった。なぜかご無沙汰して、数年ぶりだ。夫婦で行くことの多い店だったので、息子が生まれてから、そのうちまた… と、なっていたのだった。今日は妻がいなかったが、光海も「らーめんたーべたい」と歌うように言っているので、まぁいいや、と思って久しぶりに食べに行った。いつの間にか改装されて店のなかは変わっていたが、ラーメンは相変わらず美味しい! 息子はラーメン屋さんでラーメン食べるの(パパのラーメンを分けた)人生初だったんじゃないかな。
 心は冷えきっている感じだが、からだが温まって、少し落ち着いた。こういうことが大切なのかも。

2017/02/12

スポーツ選手みたいな話

 左足の踵を痛めてから、2ヵ月がたとうとしている(その後、「足底腱膜炎」という診断が下ったのだった)。今日は久しぶりに車椅子をおして6時間の外出支援。もう大丈夫かな… いや、まだか。もういいよね… いや、だめだ。のくり返し。それに、以前、痛める前にはなかった疲れが出る。生活がかかっているし、騙し騙しやるしかない。何だかスポーツ選手みたいな話になってきた? いつかは「引退」を考えなければならないときが来るのだろうか(なんちゃって)。

2017/02/11

風に色

 昨日の雪は夜までずっと降りつづいていた。南国生まれ、南国育ちのぼくは雪を見ると妙に嬉しい。それだけで何だかわくわくする。いまは、自宅の二階の部屋でゆっくりしていて、雪を見ながらぼけっとしているのが好き。夕方、小さな雪のかたまりが風に吹かれてゆくのを眺めていたらあっという間に時間が過ぎた。風に色がついたようだ。

2017/02/10

ハンバーグと雪の日

 久しぶりの完全な休日。妻子のリクエストに応えて、お昼は、横浜駅のカリオカにハンバーグを食べに行く。店に入るときまではいい天気で暖かかったが、食べ終わって、おいしかったぁ〜! と外に出たら妙に暗い。百貨店の屋上まで息子を遊びに連れて行く予定だったが、悪天候のためキャンセル。仕方なくオモチャ売り場で少し遊ばせて、電車に乗って帰ろうとしていたら、雪が降ってきた。

2017/02/09

「デザイン」しているか?

 最近は「デザイン」でかかわる仕事(やら何やら)が増えた。2010年に会社勤めを止めて大阪を離れて府中へひきこもった(?)ときには、まさか自分が「デザイン」をやろうとはこれっぽっちも思っていなかった。
 ただ、自分としては、「デザイン」をしているという感覚は薄くて、「編集」をしているつもりなのだけれど、ほとんどの人は「デザイン」と「編集」の違いなんてわからない。と言いながらぼくもアヤシイ。
 ワークショップ(?)なんかの「場」をつくるのも、まぁ、デザインといえばデザインのようなもんだ。
 そういうの、じつは何よりも自分の経験が… 自分の経てきた時間がモノを言っているような気がしている。だから経験の乏しさもモノを言う。否が応でも向きあわされるわけだ。
 作曲家が編曲まで(ときに演奏も)やってしまう、という感じでやっている。

2017/02/08

フィフス・アベニュー・バンドのアナログ・シングル

 7月まで営業延長が決まっているパイド・パイパー・ハウス(渋谷タワーレコード5F)、2015年に横浜の赤レンガ倉庫で営業したときにはハース・マルティネスのアナログ7インチ盤をつくって販売していましたが(あれもよかった)、今度はフィフス・アベニュー・バンド! A面が「One Way Or The Other」でB面が「Nice Folks」──これがまさか2017年にアナログ・シングルで聴けるとは! ぼくがフィフス・アベニュー・バンドを最初に聴いたのは90年代(10代の終わり頃)でしたが、じつはCDでしか聴いたことがありませんでした。最近はすっかりパソコンでも(音楽を)聴くようになりましたが、やっぱり音はアナログ盤が好きだなぁ。

2017/02/07

会話

 絵本『からすのチーズ』で知られる画伯と付き人との、ある日(今日ですけど)の会話…

 画伯「ゔぎゃ〜!」
 付き人「ええっ、どうしました?」
 画伯「ゔぎゃ〜!」
 付き人「せんせ〜、おきをたしかに!」
 画伯「……」
 付き人「も、もしかして、いま、おとなになってました?」
 画伯「おとなになりたくありません!」
 付き人「げんじつをみとめたくないと?」
 画伯「うん」

2017/02/06

支えられている実感

 朝から大田区の某所にて、「約束」がどんなことか、「噓」がどんなことか、そのことばを使いながら意味をよくわかってない人の「支援」をして過ごす。ぼくはその「支援する」がよくわかっていない。自分が支えられている実感はあるのだが、支援する実感はなかなか掴めない。掴んでいいものかどうかも最近わからなくなってきた。

 急に薄暗くなったな、と思って窓をあけた。

2017/02/05

草創期の技術

 毎年たのしみにしている「あざみ野フォト・アニュアル」──今年は新井卓「ある明るい朝に」、行ってきました。新井さんは「ダゲレオタイプ」という19世紀前半にひろまった写真草創期の技術を使う、ぼくと同世代の写真家。いわゆる「銀板写真」。
 新井さんが「ダゲレオタイプ」に本格的に取り組むようになったのは3.11後、知人の無事を確かめるために東北へ行って以来という。「原子力」への関心の深め方がいい。第五福竜丸を撮った作品もある。その制作を追った映像も興味深かった(ウェブ上に見つけました。リンクしておこう)。
 「練習のつもりで始めた」という「ダゲレオタイプ」による1日1枚のシリーズには不思議な感動があった。ぼくは毎朝1ページを書く、書きっぱなしにする、というのをやっていますが、彼も1日1枚を撮ると忘れたようにするという(「1枚」にかかる時間は向こうのほうがずっと長いんでしょうけれど)。

2017/02/04

具体的なイメージ

 「ひとつひとつ」「ひとりひとり」よりも「たくさんの人にひろまる」ことこそ素晴らしいという考えに囚われる人が増えすぎて妙なことになってるのかも。と思うことが最近ますます増えた。「たくさんってどれくらい?」と訊いても殆どの人はイメージできてない。

 昨夜も絵を描いていたこの人は具体的にイメージできないと気がすまない人、だという気がするけどどうかな?

2017/02/03

細かく見る

 私の作品は誰にでも出来る単純作業である。…私は小手先で描く。上っ面だけを写す。自分の手を、目をただ機械のように動かす。あとはえんえんと作業が続くだけである。(吉村芳生)

 これはその吉村さんの絵の部分。離れて見ると写真のようだけれどよく見ると鉛筆画で、細かく見れば見るほど嬉しくなってくる。

 SNSを眺めていると、どうしてそんなに、なんでもかんでも「共有」したいんだろう? と思う。戦争やら民主主義やらと同じで日本人の「大合唱」好きはいまも全く変わりないらしい。

2017/02/02

抱きつかれた凧

 いい天気。気持ちいい。光海は木に抱きつかれた凧を見つけて、ぼくから離れて、あんなに遠くまで、ひとりで。

2017/02/01

創作ノートの絵

 変化は急いではいけない。そのことの期待に終わるからだ。(山田正亮)

 毎年、自分の誕生日にゆっくり時間がとれる場合には、美術展に足を運ぶ。昨日は竹橋の国立近代美術館へ。「ストライプの画家」などと呼ばれるそうだけれど、ぼくはよく知らない。その美術館を信頼していて、足を運ぶわけ。聞いていた以上に強烈! その「ストライプ」の絵が展示室中にズラッと並べられているのが何部屋もつづく箇所があり、目が回りそう。よくまぁ凝りもせずこんなに… とその質量にクラクラ。初期のころにはモランディに影響受けたような静物画ばかり描いていて、それが見事に崩れてゆく様が俯瞰できるのもこういう個展の面白いところ。しかしぼくが最も心惹かれたのは、山田さんの創作ノートがズラリと並べられているところだった。キュレーターもストライプに影響された展示の仕方をしていて可笑しい!

2017/01/31

感謝を伝える日

 なぜ生き物がいて、なぜこの世界があるんだろう。そしてなぜぼくにはいろんな感覚というものがあって、この、いま、があるんだろう。──こどもの頃はいろんなことが不思議で、じつは、ぼくはいまでも、その「不思議だな」という思いを少しは抱きつづけてる。生を受けたら、生き物は「生きよう」とする本能をもっているのだろう。しかし人間は、ちょっと「生」を複雑にしすぎたね。なんという愚かな生き物なんだろうという気もしないではない。なんて思いながら、こうやって数学のお化け(パソコン)に向かって時間をつぶしているのも妙なことかもしれない。
 ──今日はぼくの誕生日だ。今年も、自分の誕生日は自分で祝ってあげる。それから、夜は家族に祝ってもらう予定。そして、ぼくの父母に、家族に、感謝を伝える日だ。

2017/01/30

小学1年の時だったか、担任の先生が…

 朝、起きてゴミ捨てに出ようとしたら、雨の降った跡があった。今日、明日はちょっとひと休み。明日はぼくの誕生日だから。それで昨年からずっと出来ていなかった自室の大片付けにとりかかった。その片付けが終わったとはとても言えるような状態ではないけれど、部屋が少しスッキリして、具体的にどういうことかというと、広く感じられるようになったということ。小学1年の時だったか、担任の先生が通知表に「机の中はきれいにしましょう」とよく書いていた。それくらいぼくの机の中は常にとっ散らかっていた。整理が出来ないこどもは、そのまま整理の出来ない大人になってしまった。けれど、「机の中はきれいにしましょう」ということばは、大人になったぼくを不思議と励ましてくれる。ぼくが受け取った、ありがたいことばの、ひとつだ。

2017/01/29

散歩大学

 芸大… と言われると、ぼくもいちおう芸大の卒業なので自分の母校(大阪芸大)を思い出してしまうけれど、もちろん東京で「げーだい」と言ったら東京芸大で、上野だ。
 じつは今日はじめてその芸大へ行った。外出“どこへでも連れて行ってくれ”支援に同行のヘルパーあり(理両者さんとの顔合わせ)「一緒に行ってみたいところあります?」と言ったら、「芸大の卒展… ゆっくり散歩して… とかどうです?」と返ってきて、そのアイデアにはぜひのろう! となったわけ。国立大にしてはきれいなキャンパスだった。しかしぼくは自分がもう一度大学に行きたいという気持ちには全くならないのだった。

2017/01/28

何かを制限することば

 自由にモノが言える場は、どこかに、必ず、もっておきたい。「自由」ということについては数日前に書いた。
 噓はダメだと言われる方は多いだろう。が、噓はそこら中にある。噓が本当にダメ(あってはならない)なら大変なことになる。噓があってこそ社会は成り立っている。というより、噓はダメだ、ということばに多少噓が混ざっているのかもしれない。
 最近は愚痴を良くないように言う方もよく見かける。愚痴は必要だよ。悪口は言うもんだ(不思議と伝わるもんだけどね… 悪口は、ちょっとは言われてるくらいが本当はよいのかもしれない)。
 その手のことは何でも言って(書いて)いいと思う。それが伝わって、傷つく人がいてもいいと思っている(自分が傷つくこともある、でもいい)。
 それより、何かを制限することばが溢れてることのほうが恐い。

2017/01/27

静かな道

 入試シーズン到来。と同時に、昨年春からやってきたアトリエでのぼくの授業は今年度も終了。芸大・美大を目指す学生たちにとっての「学科試験」の対策で呼ばれているので、それが終わってしまえば、ぼくの役割はいちおう終わりなのだ。しかし、ぼくは「学科試験だけ」を見ているのではなく、彼らひとりひとりの進もうとする方向を一緒になって眺めようとしている。「表現」とか「ことば」をめぐってイロイロサマザマなことをこの1年もたくさん考え、資料集めをして、授業やワークショップの企画を立て、実行に移し、限られた時間の中で精一杯やった。それでもやっぱりみんなが心配、気になるので、ぼくも、あぁ、すっかり「先生」というやつになったのだなぁとしみじみする。今年の春、いくつもの良い別れがありますように。寂しいような気もしつつ、それを願ってる。アトリエを出て、住宅街のなかを歩いて駅まで戻ろうとしたら、やけに印象的な静かな道があった。思わず写真に撮った。

2017/01/26

お山の上の「デンデン」

 日本の総理大臣が国会で「云々」を「デンデン」と(しかも自信満々そうに?)読んだ(話した)そうである。インターネット上には、某動画サイトに映像があがっているらしいから、興味がある方はご覧ください。それがどうした? そんな間違いは誰にでもある、と言う方もいらっしゃるかもしれない。彼はじつはかなり若い人で、「云々」なんて漢字にはこれまで出会ったことがなかったのかもしれないですね。そのへんの安い居酒屋で喋ってるおじさんたちも「云々」を「デンデン」と言いますかね。「国語」とやらを教えている身としてはちょっと気になる。そして、デンデン総理の「デンデン」を問題にするのは、他のいろんな重要な問題が何年も積み重なったお山の上に載った「デンデン」だからだ。

2017/01/25

チック・タック

 長門芳郎さんのお仕事、『ベスト・オブ・パイドパイパー・デイズ』のVol.2が出来た、おめでとうございます。今回は初めて聴くものも多くて、嬉しい。くり返しくり返し、大切に聴きます。
 Connie Stevens "Tick-Tock" は、世界初CD化だそう。山下達郎さんが昨年か一昨年に「サンソン」で流しているのを聴いて以来、忘れられなかった。素晴らしい音!
 ぼくは自分が歌を書いたり演奏したりすることは止めて、もうかなりの時間がたつけれど、その後もずっと「聴く人」ではあったし、むしろ止めてからのほうがよく聴けているような気がしている。ぼくにこのような音楽を教えてくれて、ぼくの生活の中に導いてくれた人たちには本当に感謝している。直接的ではないけれど、たくさん助けてもらっている。いや、これほど傍にあるものもないから、直接的だよ!

2017/01/24

「自由」とは

 芸術の本質は、目に見えるものをそのまま再現することではなく、見えるようにすることである。(パウル・クレー「創造についての信条告白」)

 昨年4月から始めた「モーニング・ページ」は、毎日、ずっと、つづけている。その「ただ吐き出す」行為の延長で、相変わらず「原稿」も書いているが、それも最近は手書きでやっている。より自由になってきた感触がある。ただ、その「自由」を説明するのは簡単ではないような気がしている。
 よく見たら、「自由」とは、「自らに由る」ということ。ほかの人の意見とか評価とか、権力によって支配されない。クレーは別の文章の中で「われわれは自分たちの性に合ったことをやってかまわない」とも言っている。それがどういうことか… ここにはそれを書くだけのスペースがない。
 その「自」の、以前より深いところに最近は降りてゆくことができるようになったという感触がある。

2017/01/23

アフリカキカクの名刺

 今月(今年)の初めに「つくる」と言っていた名刺が印刷所からあがってきた。どちらが表(主、メイン、etc.)なのかわからないって? よく考えたら、「アフリカキカクの下窪俊哉」の名刺をつくったのは初めて、です。

 2010年につくった名刺は片面印刷で、吉祥紙という上品な紙に控え目な文字で印刷されていて、ぼくの肩書き(?)は「essey & more」となっていた。いま以上にわかりづらい? 「ライター」というのとは違うよね… でも「作家」とか「随筆家」とかというのでもないし… と散々話し合って決めたのだったが… でもね、多くの人は普段、名刺の「肩書き」を見て、それが何を意味するものか「わかって」る?

2017/01/22

朝の音楽

今朝は3時頃に目がさめてから、ほとんど眠れなかった。突然、この10年くらいの間のことが、怒濤のように思い出されて押し寄せてきて。そんなとき、いつも、ラジオから流れてくる音楽に慰められた。今朝も…
 今朝は、長門芳郎さん選曲の朝の音楽を聴いていた(リンク先、radikoのタイムフリー機能で1週間は聴けます、再生を押して3時間まで)。
 ゆっくり空が明るくなっていく。高いところに浮かんだ月がとてもきれい。

2017/01/21

「表現」だなんて

 今日は以前から約束していて、息子が今後、通うことになるかもしれない場所へ家族三人で行ってきた。家ではあまり見せないような、嬉しそうな、楽しそうな息子の顔が、心に残った。ぼくは前夜が遅くて、朝が早かったので、眠くて、夕方には久しぶりに家族で昼寝(夕寝というか)をした。

 大人の、しかもたくさんお金を使う大人の理屈で回っている社会で、一番窮屈な思いをしているのはじつはこどもたちではないかという気がしている。こどもたちが生き生きしていると感じられる場では、絵とか音楽が生き生きしていて、それを見てぼくは知的障害のある人たちの「表現」を思い出す(彼らは「表現」だなんて思っていないだろうが… ガチガチに管理されてしまうと幼いこどもでもそういう「表現」はできないだろう)。なぁんだ、これじゃないか、と思う。真面目くさって「アウトサイダー・アート」とか言ってるのがアホらしくなる。

2017/01/20

1/100

 文章にとってもっとも大切なのは、前へ進んでいく力です。(片岡義男)

 センター試験明けのアトリエ授業。芸大・美大志望の学生が大半なので、あとは主に私大入試対策に向かう。例によって、ぼくはいま、自分が彼らに読ませたいと思うものを、細切れに持って行っている。が、若い人たちには自分の見えている狭い世界にしか興味がないというより余裕がなくて、どれくらい読まれているかじつはよく知らない。ただ、ぼくが持ってゆく100のうち何か1つでも心にひっかかるものがあればよい。100がなければ1もないというわけだ。
 授業後、学生たちが食べている「おみくじせんべい」をぼくもいただいたら、大吉。一番付き合いの長い学生に手渡してきた。かわりにもらってきたのは「吉」で、「飲みすぎ注意」だそう。

2017/01/19

困ったぁ

 深刻な時ほど笑いが必要だ。ユーモアの題材を探し出せ。そこに現状打破の突破口がある。(ヴィクトール・E・フランクル)

 左足の足底腱膜炎につづいて、今度は右足のふくらはぎにチクチク(時々)針に刺されたような痛みが走りはじめてる。足に疲労(この数年蓄積してきた)が出てる? あぁ困った。仕事に支障が出はじめています。でも、ここは覚悟を決めなければ。出来ないものは出来ない。仕事や生活の細部を再検討して、変えるべきところを変えて進め、ということかもしれない。ここは慎重にゆこう。と思います。苦しい苦しい。しかし、渡りに船、ということばもある。まずは「困ったぁ」と声をあげて、つくり笑いでもして…

2017/01/18

隣町の世界地図

 久しぶりに三軒茶屋のred-cloverまで足をのばす。
 そこで、中米、南米の土地や人たちを隣町のことのように楽しそうに話す人たちと接していて、あ、おれ、日本を出たこともない、パスポートもったことないし(いまのところもつ予定もない)と我に返る瞬間があった。何しろ、故郷・鹿児島と住んでる横浜の間をとても「遠い」と感じてる人ですからネ。
 何事も比較によって感じ方は変わる。それに、遠くても、そこへ行けば、近い。それに、生まれた土地からほとんど外へ出ずに人生を送る人たちの世界が狭いかと言うと、そんなことはない。ぼくには、どちらも、いいなぁ。

2017/01/17

22年

 阪神大震災から22年、らしい。そうか、いまぼくが毎週、接している若い学生さんたちは阪神大震災を知らないんだな、と思うと、今朝のモーニングページではいまから10年前、20年前、30年前、40年前、と急に記憶が遡り、自分がいなかったはずの頃までいってきた。
 小川国夫さんから生前よく聞かされた話、人は祖母祖父の世代から孫の世代まで(ほどほど生きられたとして)ざっと150年分くらいの話を、肉声で聴くことができる。
 夜には、阪神大震災と言えば… と思い出して、土岐英史「C Minor」の話も少し書いた。

2017/01/16

弁当箱の楽しみ方

 今日の昼は久しぶりにYO-KOのお弁当を買って来ようという話になった。山手駅前にあるお弁当屋さん、ここに引っ越してきた頃からずっとお世話になっている。電話で「行きますから〜」と伝えて、行くと、「今年もよろしくおねがいします」と。お互い元気でやれていることに感謝しなきゃ。ね。
 それから、食べ終わった弁当箱を見て、妻の目がキラリと光った。なるほど。庭仕事をしている間に光海がつくった「お弁当」を写真に撮っていてくれた。今日の1枚、です。木の枝は「箸」でしょうネ。

2017/01/15

「すごい」注意報

 最近の人はよく「すごい」と言う。その「すごい」にはぼくはとっくに飽きてます。「すごい」と言われると離れたくなる。と言いながらじつはぼくも「最近の人」らしく(少なくとも時代の影響からは免れようがない)たまに自分でも思わず「すご…」と言いかけて自分からも少し距離を置く。つまり「すごい」に警戒している。すごい何なのか。どちらかと言うと「すごい」より「何」を大切にしたい。「すごく寒い」「すごく嬉しい」などはたまに言います。それも、たまに、にしないとつまらないな。
 鹿児島では「すごい」を「わっぜぇ」と言うが、良いことにも悪いことにも使う。最近の人は「すごい」を良いことだと信仰しているようなところがあって、それもぼくは気に入らない。
 すごく寒いので、今夜は温かいものを、と都内某所で仕事後にモツ鍋をして、焼酎のお湯割りを飲んだ。すごく… いや、しみる。美味しい。

2017/01/14

濃厚な〈旅〉の感触

 人間のことは、あれこれ迷ってみてもけっきょくは運だと思った。(伊谷純一郎)

 Twitterである方に教えてもらって読んでいる『ゴリラとピグミーの森』より。「サル」の日本人研究者による約半世紀前の東アフリカ紀行。これを2017年に読んでいる。何だか、いい。偶然の細い、細い、見えないくらいの細い糸がたまたまつながったようで嬉しくなる。それにこの本のなかに詰まってる濃厚な〈旅〉の感触が、ぼくを明るい、軽やかな気分にさせる。
 なぜ、それで軽やかな気分になるんだろう。頭のなかだけでも現実の外へ連れ出してくれるから? いま、ぼくがいる日常も、思えば〈旅〉の一地点だということを思い出すから? 停滞していたものが、じわ、じわと動き出す気配を感じる。いや、地球はいつも回っているのだし、じつは停滞しているものなんてひとつもない。
 写真は昨夜、大田区・武蔵新田の少し高いところから眺めた月。

2017/01/13

つくり笑いと、深呼吸

 曲がり角をいくつも曲がって、どこかへゆくためにでなく、歩くことをたのしむために街を歩く。とても簡単なことだ。とても簡単なようなのだが、そうだろうか。どこかへ何かをしにゆくことはできても、歩くことをたのしむために歩くこと。それがなかなかにできない。この世でいちばん難しいのは、いちばん簡単なこと。(長田弘「散歩」)

 センター試験の前々日。坦々とやれることを続ける人、急に焦ったようになる人、雑談に興じる人たち、学生たちの顔を見ていて、いろんなことをぼくは感じる。今年度のぼくの授業はどうだっただろうか。上手くいったという感触は、ない。初めての試みに充ちていた。「読むということの根源を教えてるというか…」という人がいて、ありがたいんだけど、それ、ぼくは教えてるかな。ま、何はともあれ試験本番だ。みんな思い切ってやってきて! 困ったら(これはある方からの受け売り)つくり笑いでもいいから笑顔と、あと深呼吸を。

2017/01/12

そくていけんまくえん

 私たちは風景をつくりながら生きている。(山本ふみこ)

 数日前から再び左足の踵が痛む。長時間歩いて、とてもきつかった(以前にはなかったこと)。それで、今朝、ようやく整形外科へ行った。レントゲンを撮ってもらい、説明を受けたが、「骨棘」まで進行はしていなくて、骨には(いまのところ)異常なし、「足底腱膜炎(そくていけんまくえん)」とのこと。靴や靴底に工夫をして、ストレッチをよくして、しばらく様子見ということになった。
 それにしても整形外科は大盛況で、診察になかなか呼ばれない。ふみこさんの本を持ち込んでゆっくりめくっていた。思わず全部読んでしまうところだったが、これは少しずつ読むことに決めている。あぶないあぶない。

2017/01/11

おしること気分

 朝、起きたら、妻がおしるこをつくってくれていた。お雑煮、七草がゆ、おしるこ、お正月にかんしては、横浜出身の妻と鹿児島出身のぼくとで、慣れ親しんできた食べ物に、それほど差がない。

 ところで、ぼくは今日は何やらずっとイライラしていた。仕事から帰宅してみると妻もイライラしている。熱いお風呂に入ったら、冷たくなっていた気分も少し温まった。よく寝よう。