2017/02/28

「ゴゥワ」の実と共に

 皆ここで何を祈り続けているのだろう。(中村広子『ゴゥワの実る庭』)

 今年もあっという間に2ヵ月が過ぎてしまった。3月は息子の誕生日があり、それが過ぎると、もう本格的な春だ。4月や5月の予定も、少しずつ埋まってきている。ぼくは日々の仕事や生活の傍らで『アフリカ』と『ゴゥワの実る庭』の準備を少しずつやっているが、なかなかスムーズには進められず、もどかしい思いをしている。『ゴゥワの実る庭』は、2010年から2012年にかけて『アフリカ』で連載していた旅の記録だが、ぼくはその「書かれた旅」の感触が忘れられなくて、ずっと手もとに置いておきたい「本」なのだけれど、1冊にまとめられていないので、まとめておきたいというわけ。

2017/02/27

対照的な姿勢〜横浜美術館と篠山紀信

 今月は横浜美術館が「写真美術館」と化していた。特別展の篠山紀信が表面で、裏面は横浜美術館の写真コレクション展、裏面の充実ぶりは、「主に有名人を撮った写真をばかでかく見せる」という1アイデアに固執したような表面を軽く凌駕していた。1アイデアだけで押し切る、というアイデアで(おそらく)つくられたものが、すごく良かったという記憶はぼくにはあまりない。ただ、「篠山紀信」というブランドを横に、手持ちの駒で何が出来るか、というので横浜美術館のキュレーターは燃えたかもしれない。写真による「昭和史」であれ、「都市」であれ、「前衛」であれ、それをどう見せるかという工夫には出し惜しみがないように見える、そのアイデアを「篠山紀信」で(も)やることはじゅうぶんに可能だと思ったが、巡回展である「篠山紀信」はそんなことをせず「ただ見てくれたらいい」という姿勢を崩そうとしない。それは彼の、広告写真家としての願望なのかもしれないが…

2017/02/26

焚火

 今日の外出支援、焼き肉をやるというので誘われて、三浦海岸まで出かける。行った先は、質素な別荘のような場所。竹を刈って焚火をしながら、牛肉や海老を焼いて皆で食べる。普通に美味しい。という、その「普通」って何だろうか。
 海からは少し離れた場所だが、微かに海の気配を感じる。そこでは皆、饒舌になることもなく、ゆったり過ごせていたような気がする。そんな場所と時間が貴重に感じた。

2017/02/25

ご馳走

 不思議と、これが「ご飯」なんだな、とわかる。「パパたべて」と言われる。

2017/02/24

分岐点から

 数年前に某所で毎日のように顔を合わせていた人と、昨日は久しぶりに会って飲んでいた。いま、現在進行形で動いている仕事や物事と関係のないような話が遠慮なく出来る友人の存在も、ありがたい。数年前に、と言ったが、数えてみると、2011年だから、もう5〜6年も前になるんだ。2011年は、個人的にも、大きな分岐点になった年だった。
 野毛の「もつしげ」で飲み食いをして、伊勢佐木町のバーで飲んでいたが、最後に飲んだ二杯の強いお酒(そのお酒の名前は失念)が効いて、今朝は、起きたときにはそれほどでもなかったのに、だんだん気持ち悪くなってくるという妙な二日酔いになった。

2017/02/23

「春」を揚げる

 今朝はまた春の嵐だったが、妻が少しだけ庭へ出て、「春」を少し摘んできてくれた。それを油で揚げて、頂き物の妻有(つまり)蕎麦を茹でて一緒に食べた。妻曰く「うちが一番(経済的に)苦しい季節に出てきてくれる」──そうですネ。

2017/02/22

その試み

 写真は今朝の空。5年前の今日は、ふたりで区役所へゆき届けをして、そのあとちょっとしたご馳走(ランチ)を食べに出かけた。妻は、指輪とかそういう類いのものは要らない(買わないでいい)という人で、道草を摘んで輪っかをつくりリングのようにして写真を撮ったりした。パーティーは3ヵ月後だったし、引っ越しを控えていたので、そのときはたいしたことは何もしなかった。
 結婚って、絶対に必要なのは紙切れ1枚で、あとは何とでもなるもんだ。その紙切れも、必要ないと思えば出さなくていい。──ぼくらには出さない理由が見つからなかったので出したというわけ。
 ぼくはというと、まだアトリエでの授業も始まっていなくて(その少し後に始まった)、外出支援の仕事を始める半年くらい前のこと。まだ「ひきこもり」(精神的な?)の延長戦をやっているような時期で、正直楽ではなかったが、何だかボンヤリしてもいて… なんて昔の話のように書いているけれど、じつはその試みはいまも続いてる。

2017/02/21

5周年

 明日はぼくたち夫婦の結婚記念日。結婚してから、もう5年もたつの? と、信じられない速さで時が過ぎてゆく感触があります。しかし結婚当初と比べたら、ぼくたちの生活も、すごく変わってます。じつは当初はろくに仕事もなく、本当に何もない状況で、生活してゆけるのか? と不安になる暮らしぶりでしたが(不安になるという意味では大きくは変わってはいないかも…?)、おかげさまで何とか暮らしてます。ちいさく、ちいさく(ゆっくり、のろのろ)やってゆこうという思いは、間違っていなかったかもしれない、という気もしてます。ぼくの頭にあるのは、いつでも「継続してゆくには…」で、「大きくするためには…」ではないということ。それにしても、この5年はあっという間だった。その前の5年間は移動に次ぐ移動で、1〜2年がものすごく長く感じていたのでした。
 明日はぼくが外出支援で夕食時に家にいられないので、今夜、焼き肉と、特別なゆず酒で、お祝いを。乾杯! これからもよろしく。

2017/02/20

真夜中の「珍盤奇盤」特集

 これは先週の写真で、今日は強風吹きすさぶ春の嵐の日。終日、家にいて、息子と遊んでいた。昨夜は「夜のサンデー・ソングブック」を聴いて遅くまで起きていたので、眠い。
 「夜の」は「珍盤奇盤」の「お色気路線」ばっかり集めた特集。いつもの午後の「サンソン」ではかけられないものを、という企画で(エッチなレコードばっかりだからネ)。しかも「珍盤奇盤」なので、ただ「エッチ」なだけじゃない。突き抜けてないとね。達郎さんによると「シャレがきいてないと」。しかし、ただ「性愛」にかんする歌で言うと、普段からけっこうキワドイのはかかっているんですよ。英語だから無事ですんでる?

2017/02/19

キープ・オン・トリッピン

 それなりに経験を積んでくると、妙に賢くなってしまってというか、あの、何も知らずに突然ぶつかったような感動や、高揚感が懐かしくなるときがある。しかし出会ったときの感触は、もう二度と得られない。完全に忘れてしまわない限りそれはないというか、忘れられたとしても、それはまた新しい別のものであって、かつてあったそれではないのだ。だから二度と得られないものだけれど、せめて、あまり頭を働かせずに、浴びるような体験も意識して求めようと思う。ぼくが頭を働かせてしまう一因は、自分もつくり手であるからだとハッキリしていて、自分ならどうする…? と常に頭は働いている。それは悪いことじゃないのだけれど…

2017/02/18

「翻訳」のワークショップ

 Painting can be many accumulated quick moments, or happen over a long time. It’s not about failure so much as it’s about letting the painting tell you what it needs. Just watching it, watching everything that’s happening in it. A painting takes place over time, so it has many influences coming into it. (Elizabeth Peyton)

 吉祥寺美術学院のアトリエでこの季節にやるのは初の、英語の先生と私(いちおう国語とか道草とかの先生)でやるのも初のワークショップが無事に終了。題して、「翻訳」のワークショップ。例によってぼくの思いつき企画だけど、ぼくが考える以上に伝わっていた「ハチャメチャ訳」の醍醐味。面白かった!

2017/02/17

もう春が

 昨日の昼前に、光海とふたりで森林公園へ出かけたら、もう春が来ていた。この「春」の前で、1歳半のこどもとふたりでセルフ撮影をしようとしているお母さんがいたので、声をかけて、撮ってあげたら、撮るものあります? と言われて、ぼくたちも撮ってもらった。いい気分だった。

2017/02/16

3/16開催「地域型TSネットワークを考える」のチラシ

 この「TS」と書かれたチラシをデザインしました。何のチラシかと言うと、3/16(木)開催のイベント、おおたTSネット1周年拡大定期大会「地域型TS(トラブルシューター)ネットワークを考える」。
 「TS」とは「トラブルシューター」の略で、トラブルに巻き込まれた(障害のある)方を支援する人のこと。以下、Hさんの書かれた案内文を引用すると──障害に関する理解を広め、安心して暮らし続けられるよう、トラブルをネットワークで解決していく仕組みを地域でつくろうと『おおたTSネット』が設立されてちょうど1年… この度、さらなるネットワークの充実を図るため、TSの生みの親である野沢和弘さんを講師にお招きし、講演会&シンポジウムを開催します! 皆さまのご参加お待ちしています。
 詳細は、Facebookのイベントページをご覧ください。Facebookやってない人はどうするんだろう?(やってない人でも見られる?)

2017/02/15

『潜行一千里』の話のつづき

 バンコクを発つ移動車で撮影された前方より流れてくる景色と同時に、後方へと遠ざかる景色は、高速道路からやがて長閑なあぜ道、鳥が鳴き、水牛が歩く、ノーンカーイへと移り変わっていく。撮影クルーが幾度も見ていたであろうタイの夕陽が五面のスクリーンに五つの時間で沈む。(中尾拓哉〜『潜行一千里』パンフレットより)

 昨日、日仏会館で観た『潜行一千里』の感動が気持ちよく尾をひいている。会場には山口情報芸術センターがつくった無料のパンフレットも置いてあり、持ち帰ってきて読んでいる。これを読んで、あの映像体験が、ますます深まってきた。
 おもしろかったぁ! ではどうしても終わらせられない、観たこちらを持ち上げ、何らかの動きを呼ぶような力があるんだな。

2017/02/14

空族との旅

 夕方、恵比寿へ道草して空族の映像インスタレーション『潜行一千里』を観てきた。空族のドキュメンタリーは見るというより映像の感覚の中へ入ってゆく。久しぶりの、その感覚が、さあっと降ってきて、しみじみ嬉しくなる。
 見終えて外へ出ると、目や耳が洗われたようになり、よく見え、よく聞こえる。富田さん相澤さんとも映像の中で久しぶりに再会できた。
 『潜行一千里』、4+1の画面と多チャンネルの音を組み合わせた凝った作品で、ドローンによる上空からの映像もあるし、いつの間にか空族が贅沢な感じになっていた。それでもやっぱり、『furusato2009』で出会った、あの感じは健在だった。至福の43分、しかも無料です。日仏会館で26日まで。そして、あの『サウダーヂ』から約5年ぶりの富田監督の新作『バンコクナイツ』も25日から公開になる。それも(もちろん)楽しみ。

2017/02/13

救いのラーメン

 自分のなかでいろいろあって、鬱々としている。こういうときには、どうすればよかったっけ? と、いつもいざそうなるとわからなくなる。
 昼前、鬱々としたまま、光海と買い物に出かける。駅前まで来たついでに、商店街をウロウロして、外れまで行ったら、急に、酔亭(ヨイテイ)の味噌ラーメンが食べたくなった。なぜかご無沙汰して、数年ぶりだ。夫婦で行くことの多い店だったので、息子が生まれてから、そのうちまた… と、なっていたのだった。今日は妻がいなかったが、光海も「らーめんたーべたい」と歌うように言っているので、まぁいいや、と思って久しぶりに食べに行った。いつの間にか改装されて店のなかは変わっていたが、ラーメンは相変わらず美味しい! 息子はラーメン屋さんでラーメン食べるの(パパのラーメンを分けた)人生初だったんじゃないかな。
 心は冷えきっている感じだが、からだが温まって、少し落ち着いた。こういうことが大切なのかも。

2017/02/12

スポーツ選手みたいな話

 左足の踵を痛めてから、2ヵ月がたとうとしている(その後、「足底腱膜炎」という診断が下ったのだった)。今日は久しぶりに車椅子をおして6時間の外出支援。もう大丈夫かな… いや、まだか。もういいよね… いや、だめだ。のくり返し。それに、以前、痛める前にはなかった疲れが出る。生活がかかっているし、騙し騙しやるしかない。何だかスポーツ選手みたいな話になってきた? いつかは「引退」を考えなければならないときが来るのだろうか(なんちゃって)。

2017/02/11

風に色

 昨日の雪は夜までずっと降りつづいていた。南国生まれ、南国育ちのぼくは雪を見ると妙に嬉しい。それだけで何だかわくわくする。いまは、自宅の二階の部屋でゆっくりしていて、雪を見ながらぼけっとしているのが好き。夕方、小さな雪のかたまりが風に吹かれてゆくのを眺めていたらあっという間に時間が過ぎた。風に色がついたようだ。

2017/02/10

ハンバーグと雪の日

 久しぶりの完全な休日。妻子のリクエストに応えて、お昼は、横浜駅のカリオカにハンバーグを食べに行く。店に入るときまではいい天気で暖かかったが、食べ終わって、おいしかったぁ〜! と外に出たら妙に暗い。百貨店の屋上まで息子を遊びに連れて行く予定だったが、悪天候のためキャンセル。仕方なくオモチャ売り場で少し遊ばせて、電車に乗って帰ろうとしていたら、雪が降ってきた。

2017/02/09

「デザイン」しているか?

 最近は「デザイン」でかかわる仕事(やら何やら)が増えた。2010年に会社勤めを止めて大阪を離れて府中へひきこもった(?)ときには、まさか自分が「デザイン」をやろうとはこれっぽっちも思っていなかった。
 ただ、自分としては、「デザイン」をしているという感覚は薄くて、「編集」をしているつもりなのだけれど、ほとんどの人は「デザイン」と「編集」の違いなんてわからない。と言いながらぼくもアヤシイ。
 ワークショップ(?)なんかの「場」をつくるのも、まぁ、デザインといえばデザインのようなもんだ。
 そういうの、じつは何よりも自分の経験が… 自分の経てきた時間がモノを言っているような気がしている。だから経験の乏しさもモノを言う。否が応でも向きあわされるわけだ。
 作曲家が編曲まで(ときに演奏も)やってしまう、という感じでやっている。

2017/02/08

フィフス・アベニュー・バンドのアナログ・シングル

 7月まで営業延長が決まっているパイド・パイパー・ハウス(渋谷タワーレコード5F)、2015年に横浜の赤レンガ倉庫で営業したときにはハース・マルティネスのアナログ7インチ盤をつくって販売していましたが(あれもよかった)、今度はフィフス・アベニュー・バンド! A面が「One Way Or The Other」でB面が「Nice Folks」──これがまさか2017年にアナログ・シングルで聴けるとは! ぼくがフィフス・アベニュー・バンドを最初に聴いたのは90年代(10代の終わり頃)でしたが、じつはCDでしか聴いたことがありませんでした。最近はすっかりパソコンでも(音楽を)聴くようになりましたが、やっぱり音はアナログ盤が好きだなぁ。

2017/02/07

会話

 絵本『からすのチーズ』で知られる画伯と付き人との、ある日(今日ですけど)の会話…

 画伯「ゔぎゃ〜!」
 付き人「ええっ、どうしました?」
 画伯「ゔぎゃ〜!」
 付き人「せんせ〜、おきをたしかに!」
 画伯「……」
 付き人「も、もしかして、いま、おとなになってました?」
 画伯「おとなになりたくありません!」
 付き人「げんじつをみとめたくないと?」
 画伯「うん」

2017/02/06

支えられている実感

 朝から大田区の某所にて、「約束」がどんなことか、「噓」がどんなことか、そのことばを使いながら意味をよくわかってない人の「支援」をして過ごす。ぼくはその「支援する」がよくわかっていない。自分が支えられている実感はあるのだが、支援する実感はなかなか掴めない。掴んでいいものかどうかも最近わからなくなってきた。

 急に薄暗くなったな、と思って窓をあけた。

2017/02/05

草創期の技術

 毎年たのしみにしている「あざみ野フォト・アニュアル」──今年は新井卓「ある明るい朝に」、行ってきました。新井さんは「ダゲレオタイプ」という19世紀前半にひろまった写真草創期の技術を使う、ぼくと同世代の写真家。いわゆる「銀板写真」。
 新井さんが「ダゲレオタイプ」に本格的に取り組むようになったのは3.11後、知人の無事を確かめるために東北へ行って以来という。「原子力」への関心の深め方がいい。第五福竜丸を撮った作品もある。その制作を追った映像も興味深かった(ウェブ上に見つけました。リンクしておこう)。
 「練習のつもりで始めた」という「ダゲレオタイプ」による1日1枚のシリーズには不思議な感動があった。ぼくは毎朝1ページを書く、書きっぱなしにする、というのをやっていますが、彼も1日1枚を撮ると忘れたようにするという(「1枚」にかかる時間は向こうのほうがずっと長いんでしょうけれど)。

2017/02/04

具体的なイメージ

 「ひとつひとつ」「ひとりひとり」よりも「たくさんの人にひろまる」ことこそ素晴らしいという考えに囚われる人が増えすぎて妙なことになってるのかも。と思うことが最近ますます増えた。「たくさんってどれくらい?」と訊いても殆どの人はイメージできてない。

 昨夜も絵を描いていたこの人は具体的にイメージできないと気がすまない人、だという気がするけどどうかな?

2017/02/03

細かく見る

 私の作品は誰にでも出来る単純作業である。…私は小手先で描く。上っ面だけを写す。自分の手を、目をただ機械のように動かす。あとはえんえんと作業が続くだけである。(吉村芳生)

 これはその吉村さんの絵の部分。離れて見ると写真のようだけれどよく見ると鉛筆画で、細かく見れば見るほど嬉しくなってくる。

 SNSを眺めていると、どうしてそんなに、なんでもかんでも「共有」したいんだろう? と思う。戦争やら民主主義やらと同じで日本人の「大合唱」好きはいまも全く変わりないらしい。

2017/02/02

抱きつかれた凧

 いい天気。気持ちいい。光海は木に抱きつかれた凧を見つけて、ぼくから離れて、あんなに遠くまで、ひとりで。

2017/02/01

創作ノートの絵

 変化は急いではいけない。そのことの期待に終わるからだ。(山田正亮)

 毎年、自分の誕生日にゆっくり時間がとれる場合には、美術展に足を運ぶ。昨日は竹橋の国立近代美術館へ。「ストライプの画家」などと呼ばれるそうだけれど、ぼくはよく知らない。その美術館を信頼していて、足を運ぶわけ。聞いていた以上に強烈! その「ストライプ」の絵が展示室中にズラッと並べられているのが何部屋もつづく箇所があり、目が回りそう。よくまぁ凝りもせずこんなに… とその質量にクラクラ。初期のころにはモランディに影響受けたような静物画ばかり描いていて、それが見事に崩れてゆく様が俯瞰できるのもこういう個展の面白いところ。しかしぼくが最も心惹かれたのは、山田さんの創作ノートがズラリと並べられているところだった。キュレーターもストライプに影響された展示の仕方をしていて可笑しい!